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Posted by みやchan運営事務局 at

2008年09月17日

赤ちゃん

このところ、私の周りからにはHappyなお知らせがたくさん届くんです♪
先日は親友が第二子を出産。


一人目はアメリカでの出産だった彼女。
無痛分娩でモニターを見ながら黒人の看護師さんの

『PUSH!PUSH!』

の掛け声にあわせていきんだと。
今回は日本での出産。
果たしてどんなお産だったのかしら?



本当は里帰りを兼ねて会いに行きたかったんだけど、こちらで外せない用事があるので帰れず…。
あ~~、赤ちゃん抱っこしたかったなって思っていたら、



昨日朝、母から電話が入り

『Rちゃんが陣痛来たからYちゃんそっち行ったから。』



って、全く状況の飲み込めない電話が。



Yちゃんとは母の元職場の同僚で私も幼い頃からよく知っている友人。
そしてRちゃんはそのYちゃんの娘さん。


実は実家が近所だったYちゃんの娘Rちゃん。
ビックラしたことに私が嫁いで1年経たない頃川南に嫁いで来たの。



そのRちゃんが第二子出産と言う電話だったんだけど…。


妊娠してたの知らなかったしぃ~~。

慌ててYちゃんと連絡を取りすったもんだで今朝4時過ぎに女の子の赤ちゃんが生まれたって知らせが入り早速赤ちゃんの顔を見に行ってきました。




よそ様のお子様なのでお手手だけ~~~



生まれたてホヤホヤの赤ちゃん。
ちっさい~~い。
可愛い~~い。


生んだその日から個室で同室。
私は帝王切開だった事もあって丸一日以上一緒に居れなかったから、生みたてホヤホヤの赤ちゃんは考えてみたらこんなに長く見てたの初めて。



大仕事を終えたばかりのRちゃん。
実は会うのは本当に久しぶり。10年近くは経っているかしら?
しかも11歳も私より年下で、


RちゃんのママであるYちゃんとはRちゃんが生まれる前からの付き合いだから…。
その、私Rちゃんが生まれたばかりの時に赤ちゃんのRちゃんを見に行っているのよね~~。


なんか凄い!!
そして…自分の歳を感じたわ…。



何の因果か、お互いよもや宮崎に嫁ぐとは夢にも思わなかった私達。と、その親。
おそらく、嫁ぐまで、宮崎の方には本当に申し訳ないが正確な位置さえ知らなかった3人が、
日向にある産婦人科の個室でバリバリ遠州弁まるだしで1時間ほど話し込んでしまった。




それにしても赤ちゃん…小さいなぁ~~。
rinoもこんなに小さかったんだよなぁ~~。


すっかり大きくなって、もにょもにょ動いて、ゴニョゴニョしゃべって、主役の赤ちゃんよりみんなの笑いを誘って注目を浴びていたrino。
来月のお誕生日にと思っていたけど思わず出産した日の写真を見てしまった。


あ~~~、面影がある(って本人だから当たり前!!)。
小さかったわ~~。


見ているうちに自然に涙がこぼれて。



今日もやっぱり時の速さを感じるのでした。  
タグ :子供の成長


Posted by miki at 23:43Comments(0)出産

2007年11月13日

怖がりさん

rinoを出産して今日で調度4週間。
4週間前の今は…あ、もう誕生している。(ただ今11月14日午前10時44分)




手術での出産で、一番ビビッて居たのは実はパパ。


自然分娩で立会いを希望する私に、抵抗していたパパ。
新生児は小さくて壊れそうだから、ちょっと大きくなってから抱っこしたいって言っていたパパ。
なので出来る事なら出産前後は宮崎に留まりたいオーラをバンバン放っていた。



のに…。
手術での出産が決まったとたん、
『手術の日、そっち行こうか。』
と、申し出たパパ。(今思えばなんて素晴らしい夫。)

きっと手術って響きがとてもパパにとってリアルだったんだと思うんだけど、そしていてもたっても居られない気持ちになったんだと思うんだけど。


術後、パパが居ても大して役に立たないし、病院には泊まれないし(産婦人科での付き添いの宿泊は無しだった)、実家は母一人だし、私は動けないだろうからパパの事何も出来ないし、しかも麻酔で意識が朦朧そして居るといけないし(って、一切そんな事は無かった。物凄くはっきりしっかりしていた)、だから来なくていいよ。

と、丁重にお断りをした私。
どちらかと言えば、少し落ち着いたところで会いに来て欲しかったの。
術後の痛みは盲腸で経験しているからどんなものか想像出来たので(そんなものじゃなかった、何故なら後腹があったから!!)それならちゃんとした自分で居られる時期になってからゆっくり会いたいと思ったのね。


調度平日の火曜日という事もあって、それに理解を示したパパ。
だったんだけど。


やっぱり、居てもたっても居られなかったのでしょう。
土日の強行スケジュールでやって来たんですね。


意外と普通に立ち上がったり、歩いたりする私を見て相当安心した事でしょう。
まあ、術後電話で話していたので、元気なのは解かっていたんだけどね。


それから自分の娘に初めて会って、ちょっとビビりながら抱っこをするパパ。
でも、すぐに娘を抱っこする事に慣れそれからはずっと抱っこしていたパパ。




(* ̄m ̄)プッ
パパが抱っこすると更に小さく見えるrino。


退院後今日までにもう一度会いに来てくれたパパ。
その時はrinoが泣けばばあばと争ってrinoの元へ。
オムツだって自ら代えてくれて。


すっかり、小さいrinoの扱いに慣れたご様子。
そんなパパ。


いまだに怖くて…。



私の傷跡見れません(* ̄m ̄)プッ  


Posted by miki at 15:25Comments(5)出産

2007年11月08日

母は強し おっぱい編

書き残しておきたい入院生活。
これまた長編になりそうな予感。
興味のある方のみこの先読んでみて下さい♪(v^-^v)♪





さて、出産前は産む事ばかり考えていてその後の事は考えていなかった私。
元来そんな性格なんですよ。
土壇場にならないと行動しない。
計画を立てて準備するって事が出来ないの( p_q)


ましてや人生で大きなイベント出産はある意味ゴールのような感覚でとらえていたのかも。
ここからがスタートなのに。



ゴールであり、スタートとなる出産を終え、次に直面するのはなんと言ってもおっぱい
先日も書きましたが、産めばおっぱいは出てくるくらいの知識の私。
そして、土壇場になってやっと焦る性格の私。


出産前日も、当日も『私のおっぱい出る気配さえ無いんだけど~~』呑気に申しておりました。


それでも母乳育児をすると息巻いていたのですから笑っちゃいます。


さて、そんな呑気な母さん”miki"さんがこれはヤバイ!!と焦りだしたのがrinoを産んで2日目の朝。
助産師さんの一言だった。
『mikiさん、赤ちゃん体重が9%も落ちてるのね、小児科の先生と相談したんだけどこのままだと赤ちゃんの体力落ちちゃうからミルク飲ませたほうがいいと思うの。』


今思えば、母乳推進の病院ならそんな風には言ったりしないだろうし、何とかなったのだろうけど、
入院患者の多い総合病院。
その辺はやはり管理しやすい方向へなんでしょう。
そして、沢山居る赤ちゃんの中、rinoだけが体力的に劣るとかは嫌だな~と言う心理が働いてミルクを了解してしまう私。
やっぱりうちの子だけ…って言うのは強烈なものがあるんですね。早速の体験でした。



そして、自分の体にも大きな変化が。
出る気配の無かったおっぱいが急にパンパンに腫れだしたのだ。


いやぁ~~、女性のバストって丸いフォルムでやわらかくて

『おっぱいが~いっぱ~い♪嬉しいな、さわ~りたい~♪』

って歌になっちゃうほど魅力的なものじゃないですか?
少なくとも、私はそう思うんですよ。いや、思っていたんですよ。


違ったんですね~。
おっぱいの本領発揮の時(つまり授乳)、おっぱいの真実が分かったんです。


おっぱいは…



四角くて、筋肉で出来てるんです!!


(・ω・ノ)ノ!きゃ~~、衝撃の事実~~。


いやマジで。パッツンパッツンに張ったおっぱいはガチガチの鉄板のような硬さ。
形だって丸じゃない。もう、四角といっても差し支えない。そんな形。

そして、真っ赤に晴れ上がり熱を持ったおっぱいはとてつもなく痛い(|||▽|||)



これはおっぱいが生産されているのに、乳腺が開かずおっぱいが溜まりに溜まったためにこうなったのだけど、
この半端無い痛みに思わず、叶姉妹は出産したらおっぱいが破裂するな。と、人事なのに真剣に心配してしまった。



さて、そんなおっぱいの痛みを回避するためにも乳腺を開きおっぱいを外に出さなければならない。
お子さんがいらっしゃる方なら大抵の方がうなずくと思うのだが、
おっぱいってそんなに簡単に出てこないですよね?つまりなかなか乳腺が開かない。


そして、人生色々あるようにおっぱいにも色々ありまして赤ちゃんが飲みやすいおっぱいと、飲みにくいおっぱいがあるわけで、
私はどちらかと言えば飲みにくいおっぱいだったわけで。
(女性陣、お察しください。男性陣、ここは想像せずスルーしてくだされ)
私の乳腺が開いておっぱいが出たとして、rinoちゃんにも頑張ってもらわなきゃならない。



これは想像以上に過酷なおっぱいライフのスタートだったのです。



まず、乳腺を開く為にもう触れただけで痛みが走るおっぱいを乳頭メインでマッサージ。
これが痛い。
痛いけどやらなきゃ出ないから頑張るしかない。


ここで、ありがたかったのが助産師さんの存在。
私の入院した磐田市立総合病院
(名前を出したところで宮崎の方は知らないしって思っていたら従兄弟が多分働いていると言うコメントがあったのでリンクしてみました。みはるちゃんこの病院?)



病室から。窓の外には長閑な風景が広がってるよ~~



婦人科病棟に確か17名ほどの助産師さんが居て、3交代勤務で回しているのですが、
その助産師さんたちが本当に熱意のあるいい方々で。
もちろん沢山の助産師さんが居るので、それぞれおっぱい=授乳に対する意見も様々。
またその沢山の意見を聞く事が出来たのは本当に良かったことなんですが、
深夜遅く、右も左も解からぬ授乳に奮闘する新米ママ達に付きっ切りで励まし、指導してくれたんです。


だいたい3時間おきの授乳。
これは総合病院独特なのかもしれませんが、
授乳前に赤ちゃんの体重を量り、授乳後にも量ってその差でどれほどおっぱいを飲んだか調べそれを紙に記録するんですね。
すると何時に最後の授乳だったか、次は何時頃授乳するか表を見れば解かるのでそれを見て

『次は何時ごろだね~、じゃあその頃見に来るね。』


そう言って様子を見に来てくれる。

そして、なかなか開かない私のおっぱいのマッサージをしてくれたり、
時には中腰で1時間以上かけて搾乳を手伝ってくれたり!!

赤の他人の助産師さんがここまで頑張ってくれると人の親になった私が頑張らないでどうする!!

そう思えたんです。
実は…、一度ミルクを与えてしまった私。
なかなかでない母乳と痛み。
rinoも一生懸命吸い付くが、母乳が出ないものだからもちろんぐずるし、って言うより、なかなか起きない眠り姫だったんですね。rino様は。
一生懸命rinoを起こして、強引におっぱいを口に含ませ、rinoも新米赤ちゃん。ママも新米ママだから頑張ろうねってたまにぐずるrinoに声をかけ必死で一時間おっぱいにrinoを張り付かせて、これならいくらか飲んだだろう。
と、鼻息荒く体重を量るとなんと減っているじゃない。
そんな事が続いて、思わずミルクで育てようかしら?と頭をよぎった事もあったんです。


それを思いとどまらせてくれたのは熱意ある助産師さんの存在でした。



そして、もう一つ。
これも入院患者の多い病院だからこその良さだったんですが、
一緒に入院している沢山のママさんたちの存在。


授乳室なるものがあり、授乳の時間になるとその部屋に行って授乳するんですね。
3時間おきの授乳なので、だいたい顔ぶれが同じになるんですが、
いつでも我が子の為に髪を振り乱し必死におっぱいを与える母の姿がそこにあるんです。

眠い目をこすりながら、泣きじゃくる子をあやしながら、眠ってしまう子を起こしながら、おっぱいの痛みに耐えながら…。

いつもなら、髪の毛をくるくるカールして、お化粧バッチリしているだろうな~って言う私の感覚だと渋谷のセンター街に居そうな、この辺なら浜松を闊歩しているような、宮崎なら…どうなんだ?橘通?(詳しくなくてごめんなさい)そんな女の子もここでは我が子だけを見つめ、ひたすらおっぱいを与えている。


その姿は本当に美しく、勇気付けられ、
母親になると言う事、母親の強さを感じるものでした。

その母の姿に私がどれほど励まされたか。


私の場合なのですが、入院中1回の授乳にかける時間はだいたい2時間。
まず、授乳前に準備としておっぱいマッサージをして、両乳合わせて10cc程搾乳し、
rinoのオムツを確認、必要があれば交換して、体重を量り、
さて、眠り姫を起こしておっぱいに吸い付かせる。
片乳20分ほど合わせて40分ほど吸い付かせ、体重を量って飲んだ量を確認。
足りない分を前もって搾乳していた母乳を(なんてこと!!すっかり血迷って)哺乳瓶で与え、ゲップさせ寝かしつけたらまた1人搾乳する。必要量が溜まった頃、時計を見ると調度2時間と言った具合。


と言う事は、3時間おきの授乳なので寝れるのは1時間!!
目覚しをセットしとにかく寝る!!
時間的に調度食事の時間だったり、採血があったり…寝れない事も。
もちろん目覚ましを止めてまた寝ちゃう事もあったりして。


そんな投げ出してしまいたくなるような過酷なおっぱいライフも(今になってはいい思い出だし、心の支えだが)助産師さんと沢山のママ達の存在なしでは乗り切る事が出来なかった。
そう思うのです。


この事に関しては、少人数の助産院での出産では経験できなかった事なので、総合病院での出産も悪くない。ちょっと意見が変わる経験でした。



さて、そんな苦労をした授乳。
その後はと言いますと、


今じゃ授乳しながら歯磨きも、電話も、お料理まで出来ちゃうほど授乳の達人に。
搾乳なしではいられなかった溜り乳だったおっぱいも何故か1週間ほど前から差し乳に代わり、
下準備も必要なくrinoが泣いたらすぐおっぱいチャージできる状態に。


新生児の体重計の無い家ではいったいどれくらいの量を飲んでいるのだろう?と心配もしたけれど、
毎日モリモリおっしこも、ウン○もしているrinoちゃん。
おっぱいが足りない事は無い様で、あの地獄が嘘のような順調なおっぱいライフとなりました( ̄∇ ̄*)ゞエヘヘ


それでも、心配な事があるとネットで調べまくって情報収集。(本当に便利な時代です)
また、出産するはずだった助産院の方でもアフターフォローをしてくれるのも心強いところです(と言ってもあまりの順調ぶりに今のところお世話にはなっていませんが。)


まだまだ続くおっぱいライフ。
とりあえずの出だしはこんな感じ。
これから先また地獄に落ちるかもしれないけれど、その時はまた励ましてくれた助産師さんと、頑張っていた(仲間)ママさん達を思い出して頑張るぞ(o^-')b グッ!




最後に参考になる『魔法のおっぱい』リンクしておきます。おっぱいで困った事があった時一度見てみるととても参考になるサイトです。授乳中のママ、これから出産予定のママ。是非参考にしてみて下さい。  


Posted by miki at 23:36Comments(7)出産

2007年11月05日

母は強し

徐々に、娘とのリズムが出来てきたとは言え、
全く同じ日などなく…。
おっぱいを欲しがるタイミングも、ビービー泣き出すタイミングも相変わらず不定期で。
こうして、PCをたたいているそばから泣き出す事もしばしば。
その度に駆けつけ、オムツを変えたり、おっぱいをあげたり、あやしたり…。
ぶつ切りで記事を書いています(6 ̄  ̄)ポリポリ


それは、皆さんのブログに遊びに行っている時も同じで。
読んでる傍からビービーとお呼びがかかるので、
今じゃ誰のブログを何処まで読んだかさっぱり解からなくなる状態。


なかなかコメントを残せずすみません。





さて、個人的に書き残しておきたい入院生活。
もし興味があればお付き合い下さい。



私の入院した市立の総合病院。
規模的に言うと延岡の県病院をちょっぴり大きくした病院。


去年、約1100件の出産があるようなこの辺りでは7割がたの妊婦さんがここで出産する病院。
当然、私も弟もそして従姉妹もここで生まれているし、友達も結構ここで生まれてるそんな地元ではポピュラーな病院。



そんな総合病院で出産する事になった私。
もう、しつこいくらいにここで書き続けてきましたが、本当は助産院で出産したかったんです。
とにかくフリースタイルで、原始的な自然に身を任せるようなお産を。
そして、出産後には母乳で育てる。


主に、この2つが大まかなバースプラン。
バースプランって言っても厳密なものではないし、のりしろたっぷりだし。


そもそも、こんな事考えるようになったのも妊娠してからで、
本当はじゃあ、今まで語ってたのはなんなんだ?って言われそうだけど、
妊娠、出産に全く無知な女だったわけで…。



実はですね、子供が欲しいと言うのは昔らかの希望だったのですが、
それに対する認識が甘かったんですね。
避妊しなければ子どもが出来る。
子供が生まれればおっぱいは出てくる。
そんな認識だったんです。


例えば、妊娠中はお酒を飲めない事は知っていたものの、
授乳中も飲んじゃダメとは知らず…(想像もしなかった!!)


『子供を出産したら、子供を抱きながらお疲れビールビールを飲むんだぁ~~』

真剣にそんな夢を語ってました。


もちろん、産んでもまだ飲めないと知った時のショックと言ったら…。
3ヶ月で断乳してやる~~~
これまた真剣に申しておりました( ̄∇ ̄*)ゞエヘヘ



そんな女がある二人の言葉をきっかけに出産に向き合うようになるんですが、
1人は以前も書いた事あるのですが、本当は出産でお世話になるはずだった助産師さんの言葉で

『私は出産のお手伝いをしますね。』

の一言。
これは本当にハンマーで頭を殴られたくらいの衝撃を受けた言葉。
お産って、産婦人科の先生や助産師さんが「ああしろ、こうしろ」と言う指示にしたがって取り上げてもらうもしくは、産ませてもらう
良く分からないけど、そんなイメージだったんですね。
つまり自分が『産む』と言う能動的なイメージより
誰かがやってくれる受動的なイメージが強かった。

そうか、自分が子供を産むんだ!
そう開眼した一言。


もうひとつは、もう20年来の親友ご存知はまぞうで大活躍のこうじぃことこうちゃんの一言。

『あのね、mikiちゃん、子どもが欲しかったら出来る前から妊娠中に心がける食事をすることだよ。』


こうちゃん曰く、人間の体は約2年で細胞が殆ど入れ替わり新しい体になるとの事で、
だから、妊娠前からいい体に作り変えた方が胎児によりいい影響を与える。と言う事なのだ。

なるほど~~。と、さすがに妊娠するまではお酒は止めれなかったものの、
日々の食生活には気をつけるようになったのだ。



と、まあ。
妊娠について徐々に思いを強め、それなりに勉強もして自分なりのバースプランまで持つようになったのだが、
まさかの骨盤位(逆子)で思いっきりフリースタイルで産みたいって言うバースプランが崩れてしまった私。


そこで、せめて母乳だけは!!!
出産前の私はその事で目が血走っていたと思う(* ̄m ̄)プッ



と、言うのも絶対に無理だと思っていた母子同室これが叶う事が発覚。
ただし、部屋数が限定された産科病棟のみ母子同室が可。
出産の多い病院で場合によっては産科病棟に移ることなく同じ階の婦人科病棟から新生児室に通うと言う事もありうる。
しかも、帝王切開の私の場合尿道に管を付け排泄する為立って歩く事が術後2日は出来ず、その間は赤ちゃんのお世話が出来いからとやはり赤ちゃんは新生児室預けとなる。


それは嫌だ~~。
と、どうにか早く同室になるようにと、助産師さんが
『産後、母乳で育てますか?ミルクとか飲ませてもいいですか?』
聞いてきた時に、
『絶対に母乳で、哺乳瓶は使いたくないんです。おっぱいが出なかったらせめてスプーンで飲ませたいです。助産師さんは忙しいでしょうから私がスプーンで飲ませますから(だから早く母子同室にして~~)』


母乳育児がいかに大変な事か、そんな事も知らずに鼻息荒く答えてました( ̄∇ ̄*)ゞエヘヘ
だいたい、37週と5日で出産した私。
それも羊水が少ない、お腹小さいね、お腹が張りやすい…。
そう言われた私。
蓋を開ければ2920gのビックベイビー。
おっぱいマッサージもおっぱいの指導も受けたらお腹が張ってしまう状態だったので受けることなく。


本を1冊読んだには読んだけれど、あくまでも流し読み程度で(実際に指導を受ける助産師さんの方法と違うといけないから)そんな状態の私のおっぱいから、経験者ならお分かりかとは思いますが、おっぱいなんて出るわけもなく…。

まあ、言ってしまった以上意地でも母乳を出す事になるのですが…。
それはまた改めて書くとして。


とにかく、母子同室を目指し出産前の私は助産師さんにあれこれ画策したのです。


そのお陰か?たまたま出産が少なかったからか(こちらが正しい)出産後すぐ産科病棟に移る事に。
手術室からそのままベッドで母子同室が可の二人部屋に運ばれた私。


よっしゃ~~*≧▼)┛┗(∇≦#
これでずっと一緒は無理でも泣くたびにこの部屋にrinoはやって来る。
とは言え、本当は大変だったんです。



何が?と言いますと。
自分の状態が…。


手術を終え新しい病室に運ばれた私。
半身麻酔が効いている為当然身動きは殆ど出来ない。
動くのは手と顔、そして足の指くらい。


そして何よりお腹が痛い。
それはもううめくほど。
カーテンの向こうに空調の点検に来た業者さんが居るのはわかっているけれど、
『痛い~~~、痛い。』
とうめき声を上げずにはいられなかった。



そもそも、帝王切開の場合、体が出産した事に気が付かず子宮の収縮が遅くなるよって
看護士をしていた従姉妹に聞いていた私。
なら、後腹(子宮の収縮による痛み)もさほど痛くないよね。って思っていたのに。


な、何とΣ(゚д゚|||)
点滴に子宮の収縮剤が、そして子宮にも直接注射で収縮剤を打っていたのだ。
その上、どうやら麻酔はなかなか効かない私なのに、
この収縮剤は効果てきめんなのか、子宮の戻り具合を見に来る助産師さん全員に
『戻りが早いね~~、痛いでしょ?』
そう、驚かれるほどの収縮ッぷり。


この入院中、本当に何より痛かったのがこの『アトバラ』ってやつだった。
結局、痛み止めで難を逃れるのだが、薬が切れるとまた痛い( p_q)


と、まあそんな状態だった私。
しかし、ここからが我ながら凄かった!!


そもそも同じ体勢でまるで床ずれのごとく体が痛かったと言うのもあって、
痛み止めで腹痛を抑えている間、麻酔でしびれる足を動かし膝を立てたり、電動のベッドを利用して体を横に向けたり起こしたりしたのだ。
それを見た助産師さんが驚きながら
『足を動かしたり出来るなんて凄いね!これなら早くおしっこの管が取れるかもね。』
と。それを聞いて俄然やる気の出た私。
つまり管が取れると言う事は、その分早くrinoと同室になれると言う事じゃん(≧∇≦)キャー♪



そして、やってのけましたよ!
手術翌日見事立ち上がり、管を取り、自らの足でトイレに行き用をたしましたよ♪(v^-^v)♪
もちろん予定より1日早く同じ部屋でrinoと過ごす事に。


う~~ん。自分で言うのもなんだけど母は強い。
何とか悲願の母子同室を果たした私。
まるでゴールを果たしたマラソンランナーのような満足感があった。


ただの手術だったらもっともっと病人していただろう私。
でも、お腹を切ったばかりの病人(この場合病人でいいのかな?)だけでなく、母になった私。
のんびり寝ているわけには行かない。
となると、人間ちゃんと動けるものなんですね。

痛むお腹に堪えながらrinoの為に奔走するのだけれど、
今思うとそれがかえって術後の回復を早めた気がする。


さて、随分長くなってしまいました。
今回はこの辺で。

次回は母は強い第二弾。おっぱい編で行きましょう。



今は授乳も上級者?でもこうなるまでには大変だった!!
おっと、授乳中でつからこれ以上はダメでつよ。ってモコちゃんボディーガードですね♪  


Posted by miki at 23:22Comments(10)出産

2007年11月02日

世界一ブサイクなママ

その日は朝から何人もの看護士(助産士)さんが入れ替わり立ち代り私の元にやってきた。
9時半から始まる手術の準備の為だ。


採血、検温、血圧、胎児の心音、点滴…。

『mikiさん、朝早くからごめんね~~』
カーテンを開きながら看護士さんが私に声をかける。


『大丈夫です。』

時計を見ると6時過ぎと言った時間。
早起き?
って言うより殆ど寝れなかった。
とうとう、rinoに会う日を迎える。
そう思うと、まるで独身最後の夜のような心境だった。


本当の独身最後の夜よりドキドキしたかもしれない。
だって、結婚はやり直す事が出来るもの、rinoは産んじゃったら死ぬまでrinoのママ。
やっぱりや~めた!とはいかない。
たとえどんな子が産まれようとも私はその子を引き受けなければならない。

そう思うと期待と不安で寝付けない。


4人部屋の病室にその日入院していたのは私ともう1人。
窓際の向かいのベッドに寝ている彼女も私と同じ日にお腹のベイビーと対面する。


前日
『子供が生まれる日が決まってるなんて、何だか変な気分ですよね』
そう声をかけてきた彼女。
全くだ。子供が生まれる日が、いやそれどころか大まかな時間まで解かっている。
私は午前中、彼女は午後。

どうやら彼女も寝付けない様子。


仰向けになりお腹に手をやる。
頭の位置は相変わらず右のアバラの辺りにあって、もはやひっくり返る事は期待できない。
明日お腹の中からrinoが居なくなるなんて。
10時頃にはあなたの顔をママは見る事が出来るんだね。


そんな事をまだ見ぬ我が子に語りかけながら過ごした。
気が付くと、窓の外は綺麗な朝焼けだった。



去年、母が乳癌の手術を受けた時、
点滴を片手に歩いて手術室に向かった母。

そんな母を見送りながら、手術をするのに歩いて行くなんて!!私なら無理ッ

って、思ったのに。
だって、体にメスを入れるのよ?ストレッチャーで無理くり連れてかれてじゃなきゃ怖くてとてもじゃないけど…。


って、思ったのに。

10月16日午前9時半。
自らの足で手術室に向かった私。


後で、母にmikiちゃんよく歩いて手術室に行ったよねって言われたけど…。
あんたもね。って突っ込んだ(-"-;A ...




手術室に入り、あまり記憶は無いがおそらく自分で手術台に上がり、
着物を脱がされ、タオルなどを巻きつけられ、右を下にして横になる。
背中に麻酔を打つのだ。

『ちょっと痛いけど動かないでね。』

もちろん!動くものかと構える。
と、言うのもこの半身麻酔、以前盲腸の手術の時にあまりの痛さに背中をのけぞらせ、2度も注射する羽目になったのだ。

そう言えば、今回私が出産した病院は、私が生まれた病院でもあり、盲腸の手術をした病院でもある。


どうにか一度の注射で済み、その後、背中に点滴、またその他の麻酔を何本か打たれるが、
注射する部分に麻酔が効いている為、後は何をどう打たれようが解からない。


麻酔が効いてくると(ちなみになかなか麻酔が効かずここで長い時間を要した)両手を固定され、両足もマッサージ器を取り付けた上で固定された。
目の前には青いシーツのようなもので目隠しされ、もはやまな板の上の鯉とはこの事か!
といった状態になった。
後はもう、先生にお任せするしかない。
rinoを産む為に私にできる事は全てした。



これ以降の事は詳細にここに書き記すのは止めておこう。


私が何か違和感を感じ、『うう~』とか、『あぁ~』とか言う度に、
私の頭上に控える綺麗な看護士さん(もしくは助産士さん)が、『どうしました?』『気分が悪いですか?』
と声をかけてくれた。

『大丈夫です。』と、必死に応えるも、
目の前に青いシーツだけが広がる中、彼女の声かけは何かとても救われる思いだった。


『rino、頑張れ、頑張れ』
そうつぶやく事しか出来ず、それでも必死に頑張れ、頑張れと言い続けた。
一緒になって看護士さんも頑張れと応援してくれる。


暫くすると、『もう、体が出たよ』看護士さんの声に、

そうか、帝王切開でも体が出たよ、足が出たよって言うんだ~~。
ぼんやりそんな事を思った。


『出た~~。生まれたよ』

何人かの声が響き、rinoが私のお腹から完全に出てきた事が解かった。
とは言え、相変わらず目の前は青いシーツが広がるだけの景色。

暫くして(私としては1分はあったんじゃないかと思えるほど長い時間に感じたが)rinoの産声が手術室に響き渡る。


本当は、理想は、薄暗い部屋の中自然の流れに身を任せて産みたかった。
産んで暫くはへその緒を切らず、rinoを抱きしめ、ゆっくり、ゆっくり肺呼吸をさせてやりたかった。
へその緒の拍動があるうちは初めての肺呼吸を助ける為にもへその緒からも酸素を送ってあげたかった。
そうして、ゆっくり生まれてゆっくり呼吸を始める環境にある赤ちゃんは激しく泣く事は無いと聞く。


でも、今回はそうも言っていられない。
素早くへその緒を切り私のお腹を閉じなければならない。
となれば、足の裏を叩いてでも泣いてもらわなければならない。


それに泣いてくれないと青いシーツしか見えない私にはrinoが元気なのかどうなのかも解からないのだ。



『ふぎゃ~~』

想像していた赤ちゃんの鳴き声とは全く違う、聞いた事の無いような
それはそれは可愛い泣き声…と言うよりは可愛い音が響き渡った。



これが、rinoの声?
初めて聞く娘の声。
自然と涙が溢れる。


早く顔を見たい。どんな顔をしているの?
ママに似ているかしら?それともパパ似?

助産士さんに綺麗に拭かれタオルに包まれ私の顔のところにやってきたrino。



あ~~、じいじ(お義父さん)そっくりだぁ~~。

この時だけは右手のベルトを外してもらい生まれたてのrinoの頬を触る事が出来た。
とは言え、両足にはエコノミー症候群防止のマッサージ器が、左手には点滴と心電図(と思われる)が、右手には血圧計、おまけに背中にも点滴。
体のあちこちから管が出ているママ。


子供を産んだ時の妻ほど綺麗な妻は無かった。
なんて話をよく聞くが…。
とても、綺麗なママとはいかなかった。




つかの間の触れ合いを終え、rinoはハラハラドキドキ、
手に汗をかいて待ち構えている母の…いいえ、ばあばの元へ。




母が携帯で生まれたてのrinoを撮影カメラピカピカ



その頃私と言えば…。
後は傷口を子宮と皮膚、縫い合わせるだけと言う事で、先生がたは車の話をしながら縫合。
オイオイ、そんな話しながら縫うのかよッ(x_x) ☆\( ̄  ̄*)バシッ
突っ込みを入れたいような、
出産と言う(と言っても人任せだが)大役を終え、気が抜けた私にとってはいい気晴らしになる会話だったと言うか。


不思議とお腹が空になり、しぼんでいくのを感じながら後処理の時間を過ごした。





次にrinoと対面できたのはrinoが泣いた夜7時頃だった。
相変わらず体のあちこちに管をつけた私。
出る気配のないおっぱいをとにかくrinoの口に含ませる為だった。



助産士さんが病室に来て今から赤ちゃんを連れてきますね。と声をかけてくれると、
私は急いでどうにか動く手でベッドの周りを整える。
胸が高鳴り、それはまるで恋人と久々の再会をするかのような、そんな心境だった。






もちろん、おっぱいなんて出るわけが無く、
それでもつかの間ではあったものの初めて娘をこの胸に抱きしめる事の出来た夢のような時間だった。


たまたま、調度いいタイミングでやってきた弟夫婦が、写真とビデオにその時の姿を残してくれた。
その時には気が付かなかったのだが…。


そこに映った私は顔が真っ赤に腫れ上がり毛穴と言う毛穴が開ききっていた。
この症状は2・3日後もっと酷くなりそれは体全身に広がるのだが、
どうやら薬(抗生物質か、子宮収縮剤かなにか)に反応してしまったようだ。
お陰で、ビデオも写真も感動的な絵になるどころか、ブサイクな私で一杯だった。  


Posted by miki at 13:50Comments(15)出産